書評:『藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?』

第三回講演会の予習第2弾です。
『藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?』の書評を公開します。
今回も執筆はASRIの上石君が担当してくれました。

藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?

藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?

■100字要旨
経済成長率と現実の幸福感にはズレがある上、経済成長には限界効用逓減の法則が成り立つ。そのため、ある程度豊かになった日本は国家運営の目標を経済成長から幸せな暮らしに移行し、物質と精神的満足の両立を図るべきだ。

■経済成長率と実態には四重のずれが生じる
経済成長率と幸福感には比例関係があると主張する人が多い。しかし、実際に経済成長していない全国の中山間地域に行くと、豊かに楽しそうに生活している人達が大勢いる。このような経済成長率と実態のズレはどうして生じるのだろうか。第一に、経済成長率の計算は多数の仮定の積み重ねの上に成り立っているので、現実と一致する方が難しい。第二に、経済成長率の計算が仮に正確にできたとしても、それは平均値の話なので、その構成員である個人個人の富の増加ペースとはずれている。第三に、経済成長率が本当に高い地域に成長を実感できている人がいたとしても、そこで測っているのはフローであって、過去にその人がどれだけストックを蓄積しているかという話ではない。第四に、経済的にストックがあってかつ成長していたとしても、その人が人間的に幸せになれるとは限らない。このように、数字と実態の間には四重のずれが生じてしまう。

■いつまでも成長しなければならないわけではない
経済学には限界効用逓減という一般則がある。発展途上でモノが不足している社会では、ある程度までモノが増えていくことが嬉しい。年収が伸びてくることで個人も社会もどんどん豊かになる。しかし、ある程度のポイントを過ぎたら、それ以上年収が伸びても豊かさの実感はさほど伸びなくなる。つまり、踊り場かゴールかは不明だが、ある程度落ち着くところまで日本は行ってしまったと考えられる。お金の成長だけを続けるよりも、今後は金銭換算できない価値を増やしても良いくらいまでに世の中が成熟してきたんじゃないかとも言える。ある程度全員が食えるところまでお金は貯まったのに、その後もこれまでと同じペースで経済成長していくのが目的だなんてカルト集団に近い。国家運営の目的は経済成長自体ではなく、みんなが幸せに暮らすことであり、この点を忘れたお金だけの成長の議論は、すべて極論になってしまう。

■物欲と精神的満足のミックスが日本の幸せ
一旦物欲まみれというステージをきちんと通り過ぎた後で、やっぱり物欲だけではしょうがないというところに至って初めて、次のステージに行ける。日本は物欲を通り過ぎるところまで来ているので、ブータン等にはできないような幸福度の指標を作成しても良いように思う。だけど、その際には日本人特有の妬み僻みの構造(日本には他人が落ちることによって自分が上がった気になる人が多い)があるので、それを排除する方法を考えないといけない。ある程度のモノの良さも分かった上で、モノ以外で精神的に満たされることが必要だ。恐らく、何かほどほどのミックスを我々は狙っているのだろう。ある程度赤字だけど、そんなに赤字を垂れ流してはいない海土町みたいな所と、ある程度儲かるけど文化性や幸福度が足りない豊田市のような所と、ほどほどの所をライフステージに応じてそれぞれ選んでいけるということが日本の幸せではないだろうか。

■斬新な点
山奥にカフェが誕生することは、渋谷に一軒カフェができるのと全く異なるインパクトを持つ。「そこにカフェができた」という噂が隣町にまで広まっている。だから、かなり遠い所からも車で乗り付けてきて、お洒落な雑誌も毎号そこで読めるし、自分の家に友達が訪ねてきた時もそこを紹介できる場所になっている。そういう場所で地域の若い人が居合わせると、テレビの話を一通りした後に、「私たちの町はどういう方向に行くんだろう」という話になったりする。そういう場所でワークショップをすると、一回目と二回目のワークショップの間にカフェでけっこう町の話題が共有されていて、その内容がいきなりすごく高いレベルまで行くことがある。なぜそうなるのかと言えば、カフェに良く集まる人が雑談をすることで、言わば非公式のワークショップが毎日積み重なるからだ。つまり、山奥のカフェはすごく公共性のある施設であると同時に、町の可能性を語る場にもなっている。